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ビッグ・アイズの裁判を考える=当然ネタバレあり [映画]


ティム・バートンの「ビッグ・アイズ」はクライマックスが裁判シーンです。



夫婦の裁判というと、不倫とか生活苦による離婚裁判が普通です。



けど、この場合は違う、のが映画の核心です。



すでに予告編とか紹介記事でご存じの方もいらっしゃると思いますから、あらすじをさっとご紹介します。



ウォルター・キーンとマーガレット・キーンという夫婦です。


1950年代に注目された絵画で「ビッグ・アイズ」というシリーズがありました。

これは少女の絵で、瞳が比率的に非常に大きい独特のものです。



夫のウォルターがこれを描いた画家だということで注目され、スターになりました。

しかし、実際に描いたのは妻のマーガレットだったというのが核心です。

サインはKeaneとなっていて、偽造ではない。





出典 映画『ビッグ・アイズ』よりクリストフ・ヴァルツ、エイミー・アダムスがゴールデン・グローブ賞にノミネート! ≪ TimeWarp  海外エンタメ専門サイト -



話としては非常にわかりやすい設定だと思いますけど、実話だったそうです。



夫が天才画家、スターとして騒がれていて、まあ図にのっている態度をとります。



我慢していた妻が、これは自分が描いたものであると言い出し、夫を相手に裁判に持ち込むのです。



もちろんドラマとしてそこにいくまでの間の会話、主張とごまかしのやりとりが続きますけど、とにかく裁判になる。



殺人事件なんかの裁判だったら、やっていないと言い張れますけど、これは作者が誰かという裁判です。

おれだ、と言い張れるかというのがポイントです。



あっさりネタバレをすれば、もし自分が描いたというならここで、つまり法廷で描いてみてくれ、となるのです。

本当に描いた人間にしか描くことはできません。



軽くばらして申し訳ありません。

言いたいことがあります。

このマーガレットという人間は、自己主張をしない人で、仮に夫が自分の作だといわなかったら、私んだ、と強く言い出すような存在には見えません。



芸術は商売とは違う、と叱られるかもしれませんけど、売り込みというのは必要なものです。



あちこちに頼んで頻繁に個展を開いたり、画商を招いたり批評家に挨拶にいったりしないとなかなか目が出るものではありません。



人が自分を発見してくれないのです。



もしどこかでちょっと着目をされたとき、過去の作品だとか、ポートフォリオをずるずるっと見せるようなことをしないと、なかなか記憶に残るのもむつかしい。



語り掛けられたら、ホラ話みたいに入賞歴だとか、絵の購買者が実は有名な女優なのだ、なんていわないとやっぱり忘れられます。



それ、マーガレットにはできないことばかりでしょう。



それを主体的にウォルターがやったのです。



実話とはいえ、この設定を、詐欺師の夫を正義で告発する妻、という考えで語るのあれば、私にはつまらない。

悪は最後に滅びる勧善懲悪のハリウッド映画か、ということになりますから。



ティム・バートンと言う人は、相手を純情に愛するのだけど手がハサミなので抱きしめられない苦悩を描いた人です。



枯れ木の枝に結婚指輪を差して求婚をしたら亡霊が自分に迫ったのだと感動して快諾し、亡霊の姿をあらわしつきまとう。

この霊をきずつけずに解消する方法はないかと悩む存在を考えた人です。



ハリウッド式の、正義の味方が最後に勝つ映画なんて作りたいと思っているなんて、信じられません。



ただ、あちらで公開されたら、そういう受け取り方をする観客が多かったろうことは十分想像がつきますけど。



1954年のオリジナルのゴジラをアメリカで公開したとき、あの生き物を守りたいと考える志村喬の存在なんか無視しました。

吹き替えのセリフにそんなものは入れなかった。

オキシジェンデストロイヤーというゴジラ退治策を発明した学者が、これが今後戦争などに使われたら大変だと心配して、その詳細仕様を知っている自分自身を消すために自殺するなんていうエピソードも吹き替えで全部なくしました。

これで悪の怪獣ゴジラを倒してやる、というだけの話にし、最後はやっぱり悪が滅んだ、とした、というレベルのものがアメリカ人式の映画意識にあります。



さて、ビッグ・アイズです。



マーケティングをし、主体的に作品を営業の場に持ち込んだ天才的なプロデューサーが夫だという見方はできないでしょうか。



その段取りの中で、プロデューサー自体がアクターだと誤解された契機があって、自分自身だという役を演じ始めたという設定はおかしいでしょうか。



それほど騒がれるほどになると思わなかったので、一時的に自分が描いたよという役を仮装しただけのつもりだったのに、引っ込みがつかなくなった、という心理は変でしょうか。



夫婦関係を夫のほうの立場で考えてみます。



状況がどんどん沸騰し、すばらしい現代アートの創造者が自分だということになり、騒がれている。

これは不愉快ではない。快感である。だけど、ちょっとした嘘の上に成り立っていることはさすがに知っている。



このことを妻が非難してきたとする。



男だったら、その言い方にむっときて、怒鳴ったりするかもしれない。

自分でも知っている自分の非を妻に指摘されたら、思い切り怒ってしまうのが男です。



こういうとき男は「おれの苦労も組んでくれよ」という意識になります。嘘ついているのはつらいんだ。



だけどその嘘の上に展開していることが、自分たちの生活を豊かにし、一緒に幸せになっているのではないか。



自分が描いた絵だというのはよくわかっている。

だったらその絵に対する評価があることを誇りにしてくれ。真実は君の作品なんだから。



そういう思い方をしたんではないかな、と考えるのです。

こういう感覚で夫婦生活を送っている人はものすごくたくさんいると思うのですが。




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